幕末から明治にかけての侠客で「海道一の大親分」と呼ばれた、清水次郎長の名言。
ある人が次郎長に聞きました。
「あなたは子分衆から実に慕われているが、あなたの為に命を懸けてくれる子分が、一体何人いるのか」
次郎長いわく、
「私の為に命を懸けてくれる子分が何人いるかはわからない。しかし私は、子分衆の誰一人の為にでも、何かあればいつでも命を懸ける気でいます」
…これが戦前の日本人であり、日本人が鑑とする指導者の考え方だと思います。
ひるがえって昭和の日本海軍上層部。
自分達の敗北の責任を、特攻という形で若者達にシワ寄せさせた側面があるのではないか。
そんなに特攻がしたいのなら「指揮官先頭」の海軍のモットーに従って、自分が行けばいい。しかし彼らエリート官僚は、若者に特攻を押しつけて、自分達は行こうとしない。
終戦時に自決した大西瀧治郎 中将以外は、誰も責任を取らない。
昭和の海軍上層部は、明治の海軍の躍動的な気風や東郷平八郎の武士道精神は薄れ、官僚的な自己保身が蔓延していたのです。
国家に命を懸ける軍人も、戦場から遠く離れた後方では自己保身や責任回避が優先するという事でしょうか。
その中で、海軍大学校で学んだ海軍将官の中でも、自ら特攻の先頭に立って出撃した第二十六航空戦隊司令官 有馬正文 海軍少将(死後、中将に特別昇進)を、私は中学時代から尊敬していました。