アメリカとの戦争を主張したのは海軍
「ソ連に向き合って北進すると、憎き陸軍に予算を持って行かれる。だから海軍は南進」
「例え米英と戦争する事になっても、南進して東南アジアを支配しよう」
これが海軍の本心です。
「南部仏印進駐の対抗措置として米英が禁輸してきたら、米英と戦争する」
これを吹聴したのも海軍。
蓮沼蕃 侍従武官長は嶋田繁太郎 海相に、以下の様に述べています。
「昭和16年6月までは陸海軍ともに対米不戦だったのに、7月2日の御前会議で戦争やむなしの姿勢に導いたのは海軍」。
まだ禁輸されてもいないこの7月2日の御前会議で、海軍トップの永野は対米開戦を唱えましたから。
昭和天皇は、永野のこの開戦論を、
「捨鉢の戦をするとの事にて誠に危険なり」
とまでご発言。
海軍の敗戦責任は、これだけでも明確です。
1940年(昭和15年)9月の日独伊三国同盟締結により、米海軍の半分が大西洋にいく事になりますので、太平洋方面は開戦時で、
日本空母10隻に対し、米空母3隻。
日本戦艦10隻に対し、米戦艦9隻。
日本重巡18隻に対し、米重巡12隻。
海軍はこの有利でやりたかったのだと思います。
しかし、空母18隻新造を盛り込んだ1940年7月の『両洋艦隊法』によって米海軍は1943年にはとてつもなく強くなる事がわかっていたのに、なぜ融和策を取らずに強硬策を取ったのでしょうか。
「2年後には逆転されるけど、今なら勝てるからやっちまえ」
なんて、正気の沙汰ではない。
また、ハル•ノートが届いた時には、極秘に建造していた世界最大最強の戦艦大和がほぼ完成していたので、これをオープンにするだけでアメリカに対して十分な戦争抑止になりました。
アメリカは「必ず勝てる」という態勢が出来ていなければ、自分から戦争を仕掛けないので、完成間近の戦艦大和を公開したら、それだけで向こうから攻めて来る意思を喪失します。
となると、
「山本五十六が、華々しい真珠湾攻撃をやりたくて仕方なかったのだろう」
という推測が成り立ちます。
いずれにせよ、西の支那事変が終わっていないのに東の真珠湾攻撃なんて、発案者に日本破壊の隠れた意図がなければ出来ない事です。