極西のケルトと極東の日本。
両者は先祖崇拝・自然崇拝の多神教という点において、ユーラシア大陸一万キロをまたいで人類の最古層で共振しています。
宇宙も人間も、あらゆる生命はらせん状に輪廻循環する。
これが極西のケルト人達の宇宙観です。まさに古代日本神道の宇宙観と同じです。
またアイルランドやスコットランドといったケルト系の文化や音楽にも、古代日本につながるものを感じます。
キリスト化する以前の、人々が神々と共存していた太古の多神教の記憶が蘇ります。
人類のDNAに刻まれた命の旋律…。魂が共振します。
具体的に言うと…。
日本の音階とアイルランドの音階は5音階で通底しているという事で、私は最近、「アニーローリー」や「故郷の空」や「ロンドンデリーの歌」や「蛍の光」といったアイルランドやスコットランドの曲を改めて聴きました。
つまりケルト系の音楽ですが、生命の儚さ、切なさ、過ぎ行く命への惜別や愛惜の念、たそがれ感、もののあはれ、生命の永遠の循環性、即ち無常観…。
生命の故郷、母親の胎内に回帰する様な安らぎと言うか、キリスト教以前の欧州の最古層に触れるような旋律を感じました。
これらは、何の抵抗もなく日本人の心の琴線に調和します。
『ロンドンデリー』も初めて聞きましたが、初めてなのに懐かしい。
多分、明治の開国時に元勲達の中には直感的に、イギリスと日本の太古の近似性を感知した人間はいたと思います。
古代ケルトと日本に共通する無常観
万物は、最終的には無に帰する所にその本質があります。
今が盛りのその裏には、間もなく訪れる「老い」や「別れ」や「終末」が貼り付いている。
青春も、人生も、人の命も、儚い。
煙の如く消え去って行く。
「会う」は「別れ」の始めにて…。
これが真理です。
だからこそ、今この瞬間が愛おしい。
ケルト音楽とも通底するこの無常観こそ、古今和歌集や、徒然草・方丈記といった中世の草庵文学、日本的世界観の骨子です。
惜しまれて散りゆく桜の様な、或いは夏の盛りを過ぎて吹いて来る秋風の様な、どことなく寂しさや切なさが漂う上記のケルト系の音楽に、それに通底するものを感じました。
だからこそ、アイルランド人を父に持つラフカディオ・ハーンは、島根県の出雲に住み着いたのだと思います。
日が沈む極西のアイルランド(ケルト)は、日本の西側に位置する同じく日が沈む島根と、親和性が高い。
一万キロの距離を離れて、両者は最古層でつながっている。
彼ラフカディオ・ハーンは、島根・出雲にケルトの面影を見たのでしょう。