横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

戦前から、日本はジェネラリストを養成しなかった

山本五十六の息子・山本義正が「尊敬する人物」として名を挙げている共産党シンパのアメリカのルーズベルト大統領。

「ジャップは猿だから地上から根絶やしにしろ。無条件降伏以外は認めない」と、アメリカ史上最も日本人を憎んでいた彼が1945年4月に死んで、反・共産党トルーマン大統領に代わりました。

それにより、アメリカの対日政策が大きく変わりました。

その頃、ソ連が欧州の半分位を支配してしまったので、アメリカは 「こいつらは極東でも同じ事するだろう」と、警戒し始めたのです。

それによって 「早く日本を降伏させて自陣営に取り込み、ソ連に対峙すべき」という考え方が出て来た。 

「戦後のビジョン」まで見据えていると言う点で、アメリカは指導者に戦略眼があるのだと思います。   

大東亜戦争は、やり方によって日本に勝つチャンスはあった」

「勝てないまでも、負けない戦い方は出来た」「それを壊したのは山本五十六

と、私は一貫して主張して来ました。

その考えは変わりませんが、よしんば勝てたとしても、アメリカみたいに「戦後のビジョン」まで視野に入れて国家戦略を立てていた指導者がいたかどうか。

(特に海軍がそうですが)指導者は「行き当たりばったりの戦闘」をしていたのではないか。

アメリカは、開戦後すぐの1942年前半には「日本を占領した後に、どの様に支配して行くか」というビジョンを立てていました。

個々の戦闘では米軍は押されているのに、です。

要するに、戦前の日本の高等教育システムにおいても「スペシャリスト」の養成はしても「ジェネラリスト」の養成はあまりしなかった。という事だと思います。