2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧
杉野富也 先生 1925年(大正14年)2月生まれ 第343海軍航空隊。偵察機『彩雲』搭乗員。 福岡県 旧三池郡高田町のご出身。 三池炭鉱があった三池郡です。 杉野先生は、中学2年が終わった1942年(昭和17年)2月に海軍・佐世保航空隊で試験を受けられました。 1…
※①の続き 1945年(昭和20年)3月19日… 前の日の18日に、ベテランの古い人が偵察に出て、敵の機動部隊を発見しとったんです。 だから確信してました。 「明日は敵は必ず来る」 と。 その前、14、15日から第一配備だったんですね。 いつでも飛べる様に、外出は…
「お前の切腹は俺が預かる」と、隊長に止められ、戦後は学校の先生に 織茂領 先生 1923年(大正12年)生まれ。 海軍飛行予備学生 13期。 第二河和海軍航空隊。 偵察機『彩雲』搭乗員。 ご本人いわく「親の反対を押し切って海軍航空隊に志願した」との事。 終…
人の悪口を言うたらいけん インタビューの最後に、天野先生に長生きの秘訣をお聞きしました。 …人間いうもんは、神様じゃないけん。弱点もあれば、いい所も悪い所もある。 だから、人の悪口を言うたらいけんのじゃ。 「あの人いやよ」言うてね、悪口は絶対言…
天野環 先生 1922年(大正11年)6月26日お生まれ。 松山ご出身で丙飛五期。 1942年(昭和17年)4月1日に三沢航空隊に入隊。その後はウェーキ島に行き、そこからミッドウェーの雷撃に向かい、その後にサイパンを経てラバウルに進出します。 1942年(昭和17年…
前述の今吉孝夫 先生 1932年(昭和7年)お生まれ。 終戦時は13歳。 鹿児島県加治木空襲を経験された方です。 加治木空襲時には、急降下爆撃の直後に被弾した敵機がいます。 先生はそれを目の当たりにしていましたが、被弾した敵機は一度ゆっくり上昇してその…
今吉孝夫 先生 1932年(昭和7年)お生まれで、終戦時は鹿児島県加治木中学1年生の13歳。 本土決戦に備える中、加治木空襲を体験されます。 Q.地上数十メートルですから、向こうは当然、女子供とわかって狙いを定めて機銃掃射してくるんですよね? A.そりゃあ…
以下は、岐阜女子大学客員教授 矢野義昭 先生(元陸上自衛隊 陸将補・元第一師団 副師団長)から教わったお話です。 仁科芳雄博士が携わっていた原爆開発は、1945年2月、二号計画中止で頓挫。 これが定説です。しかし実際は違います。 海軍はF計画といって戦…
坂上多計二 先生 1925年(大正14年)台湾ご出身の軍属として、フィリピン・ミンダナオ島ダバオ市郊外の海軍直営農場で、120名を指揮して陸海軍に生鮮食料品を補給する仕事をしていました。 その後、陸軍の第百100師団 独立歩兵第163大隊 高橋中隊へ現地入隊…
伊東孝一 先生 1920年(大正9年)お生まれ。 陸軍士官学校54期。 第32連隊 第1大隊長。 沖縄戦、いや、大東亜戦争を通じて最も敵軍に損害を与えた大隊長。 伊東先生のお話 敵の上陸地点は、リーフの形状からしても嘉手納海岸しか考えられないので、日本陸軍 …
※岩崎高明先生のお住まいには、何と広田弘毅揮毫の額が飾ってありました。 岩崎高明 先生 1921年(大正10年)お生まれ。 1941年(昭和16年)に陸軍士官学校(55期)を卒業後、第4飛行師団 独立飛行第52中隊に所属。 その後、一○○式司令部偵察機の機長として1…
中島幸雄 先生 ゼロ戦パイロット。第22期 乙種飛行予科練習生。 中島先生のお話 鹿屋の第132航空隊から、ラバウルに行きました。台湾沖航空戦も行きました。空中戦は15回くらいやって…。 高度3500メートルから、45度の角度で突っ込みます。ほとんど真っ逆様…
グライダー特攻に「熱烈志願」 呉正男 先生 1927年(昭和2年)台湾生まれ。 呉先生は小学校卒業後、東京の中学に留学。1944年(昭和19年)4月に志願して陸軍特別幹部候補生一期生として、水戸航空通信学校に入学しました。その後、滑空飛行第一戦隊に配属と…
「ゼロ戦パイロットがカッコいいなんて、とんでもない。戦争というのは、想像を絶する生き地獄なんです。私は戦争を憎む」 原田要 先生 1916年(大正5年)お生まれ ゼロ戦パイロットとして、真珠湾攻撃での機動部隊の上空直掩任務に就き、ウェーク島の戦い、…
上ノ山金夫 先生 1921年(大正10年)生まれ。 1944年8月、戦車第2師団 司令部要員として、第14方面軍 戦闘序列に編入。 フィリピン•ルソン島にて、九七式戦車に搭乗し、米軍の来寇に備える。 1945年1月9日、米軍がルソン島に上陸し、日本軍はこれを迎え撃つ…
中学を中退し、陸軍に志願 樋渡強 先生 支那駐屯歩兵第一連隊に配属されて「大陸打通作戦」に参戦した方です。 アッツ島玉砕の報道に接し「彼らだけを死なせるわけにいかない」と決意し、中学を中退して陸軍に志願。 1944年(昭和19年)1月に入隊し、10日後…
北沖直行 先生 1921年(大正10年)生まれ。 愛媛県内子町ご出身。 北沖先生は、九六式艦上戦闘機のパイロットとして支那事変を戦われた方です。 ゼロ戦ではく、九六艦戦です。ゼロ戦よりひとつ前の機種です。 2017年の時点で、何とご自分でお車をご運転され…
最近の研究では「105万人抑留、約50万人死亡」と言われる、地獄のシベリア抑留 西倉勝 先生 1925年(大正14年)お生まれ 1945年(昭和20年)6月、北朝鮮•会寧の部隊から関東軍に編入され、ソ満国境地帯で陣地構築に従事。 その後、同年8月18日に武装解除。 1…
4年間の抑留生活 石井豊喜 先生 1922年(大正11年)お生まれ。 仙台陸軍幼年学校から、陸軍士官学校56期。終戦時、陸軍大尉。シベリアに4年間抑留。 「最も苦しい」「凍傷で鼻が落ちる」と言われるタイシェット•バム鉄道の線路敷設業務に、使役させられまし…
神代忠男 先生 1922年(大正11年)生まれ。 慶応大学経済学部3年時に、大学生も学徒出陣で徴兵される事になり先生は覚悟を決めます。 神代先生いわく… 元々うちは、武家なんですよ。 学徒出陣の時、母は心の中は知らないけど、頑張って行って来いと私を励ま…
16歳の見習い看護婦が見た生き地獄 女学校を繰り上げ卒業して、嘱託職員の看護婦として勤務していた当時16歳の服部道子さんは1945年8月6日、爆心地から約3.5キロの地点で被爆。 物凄い風圧と白い閃光に、気を失いました。 太陽の熱が6000度ですが、4000度か…
増山保雄 先生 1921年生まれ 空母『翔鶴』ゼロ戦パイロット。 1943年、空母『飛鷹』に乗艦後、い号作戦でラバウルの陸上基地に転属になり、ろ号作戦にも参加。現地で一年間、空中戦を繰り広げます。 その後、空母『瑞鶴』に乗り込み、日本海軍の切り札・決戦…
たった一瞬の出会いなのに、忘れられない人… 人との出会いは「会った回数」ではありません。 毎日顔を会わせていても気持ちがつながらない人もいれば、たった一回会っただけでも、忘れられない人もいます。 …と、私は前のブログに書きましたが…他にもまだい…
ほぼ麻酔なしで片足を切断 「ノコギリで切る音が聞こえる」 内貴直次 先生…。 いま振り返っても、五体が裂かれる思いです。 1921年(大正10年)9月5日生まれ。 日の本の 健き男(おの)の子は ひたすらに 捧げつくさむ 大君のため 内貴先生が1941年(昭和16…
敵将が絶賛したペリリュー島の守備隊 ペリリュー島での日米両軍の火力の差は、恐らく数百倍だと思います。 にも関わらず、死傷者の数はほぼ互角。 日本人として忘れてはいけないペリリュー島の戦いで、1944年9月の米軍上陸から終戦後の1947年まで、敗北を信…
ゼロ戦パイロットとして、B29を迎撃 中島又雄 先生 1924年(大正15年)熊本生まれ。海軍中尉。戦後は海上自衛隊に入隊し、海将。 1941年(昭和16年)海軍兵学校に入校。 8ヶ月繰り上げて卒業し、1945年(昭和20年)3月に海軍中尉に任官。 第332航空隊のゼロ…
特攻隊の生き残り、阿山剛男 先生 海軍第14期飛行予備学生の阿山剛男先生は1923年(大正12年)お生まれの方で、私は2018年に7月にご縁をいただきました。 戦争当時、早稲田大学商学部一年生だった阿山先生は、学徒出陣で茨城県の百里原海軍航空隊に配属され…
三島由紀夫 先生、血で書いた入魂ぶり 前回の続き。三島由紀夫文学の最高峰『豊穣の海』四部作の第二巻『奔馬』 後の自決に先んじて、それをそのまま地でいく様な内容ですが『英霊の聲』『憂国』と並び、三島文学の中でも私が最も好きな作品です。 一筆一筆…
三島由紀夫 先生は日本最高の文学者 私は十代の頃に三島由紀夫 先生に傾倒し『三島由紀夫 研究会』に所属していました。 新潮文庫から出ている三島由紀夫 先生の小説は、8割方読破しました。 見出しのタイトルは、猪瀬直樹 先生の言葉ですが、私もそう思いま…