2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧
瀬戸山 定 先生 1926年(大正15年)生まれ。 陸軍少年飛行兵(14期生) 航空総軍 司令部通信班 陸軍伍長 1942年(昭和17年)4月、陸軍少年飛行兵を志願して東京陸軍航空学校に入学するも、通信への適性が高いという事で、通信兵となる。 瀬戸山先生のお話 昭…
藤原重人 先生 1924年(大正13年)生まれ1944年(昭和19年)9月 東部63部隊に現役兵として入営。 藤原先生のお話 翌1945年2月〜7月まで、九江から長沙、楽昌と3000キロを行軍して、戦友がたくさん死にました。 日本の兵隊は農民から徴発(略奪)しました。 …
大石治 先生 1926年生まれ。海軍上飛曹。 ゼロ戦パイロット。第303飛行隊所属。 1945年5月、鹿児島上空でグラマンF6Fと空中戦を行い、一機を撃墜した直後、大石先生自身は撃墜されて海面に墜落しました。 風防は開かず、操縦席に閉じ込められたまま、海中に…
「まずはインド洋を制圧しろ」という日本国家が定めた本来の基本戦略においては、全くやる必要がないのに山本五十六が引き起こしたガダルカナルの戦いは、対米勝利が目的なのではなく、日本陸軍を殲滅する事が目的だったとしか思えない。実際にそうなった。 …
福重博 先生 1921年(大正12年)のお生まれ。 陸軍士官学校55期。 竹田五郎先生と、広島陸軍幼年学校以来の同期。 戦後は陸上自衛隊に入隊し、一佐で退官。 三島由紀夫事件の時は、市ヶ谷の建物の中から見ていたそうです。 福重先生は、防衛庁時代に『戦史叢…
磯部喜一 先生 1919年(大正8年)生まれ。 陸軍憲兵伍長。 1941年(昭和16年)に陸軍憲兵を拝命し、1944年(昭和19年)にビルマ方面軍へ。 一年半にわたり、ビルマ南北を縦断して戦闘、諜報、宣撫工作を行う。 最後にシッタン河突破作戦に従事し、終戦。 そ…
左右のイデオロギー、関係なし 陸軍士官学校の最終期61期の方達と。 2017年頃の写真です。 皆さんお若い。90歳位ですね。 61期は、1927年(昭和2年)生まれの方達の期です。終戦時18〜19歳くらい。 実際の戦場に行く前に終戦になった世代です。 つまり…。 多…
山口叡 先生 陸軍士官学校56期 陸軍大尉。 陸上自衛隊 陸将補。 1922年(大正11年)お生まれ。 山口先生は戦時中、若き青年将校として、大陸打通作戦(1944年昭和19年4月〜12月)に参加されます。 57期までが実戦経験あり、です。 ですから戦後、警察予備隊…
亀谷敏子さん 1931年(昭和6年)深川生まれ 中学3年だったお兄様は「予科練を受けたい」とご両親に願い出た時に猛反対されましたが、「軍国少女だった」亀谷さんはお兄様に言われるままに、ご両親に内緒で志願書をポストに投函しました。 その結果、お兄様は…
※東京大空襲を経験された佐古田 先生 ※一式陸攻搭乗員 松田政雄 先生 ※竹田五郎 先生 陸軍大尉 『飛燕』パイロット 戦後は 自衛隊 第12代 統合幕僚会議 議長
※①の続き 「70年間、語れなかった。最近やっと、口に出せる様になった」 という奥様もいらっしゃいました。 思い出すだけで血が吹き出す心の傷が、ようやくかさぶたになるのに、70年かかった、という事です。 書物から得た知識というのは、その描写がどれだ…
清岡美知子さん 1928年(昭和3年)生まれ。 清岡さんをモデルにしたドキュメンタリー映画が作られ、2021年メルボルン国際映画祭に出品されました。 清岡さんは3月10日の大空襲時、浅草にお住まいでした。 ご家族はご両親・お姉様と清岡美知子さんの4人暮らし…
※①の続き 今まで訓練でやっていた様に、水面から10メートルの高さで敵艦に迫りました。 私は、魚雷の投下索を引っ張る役目でした。 「(戦艦)コロラド型だ!長門と比べて小さいな」 と感じました。 「しかし、もしかして(標的艦)ユタかな」 とも思った…
常盤盛晴 先生 1921年(大正10年)お生まれ 陸軍大尉。 ※写真の右横は、元 近衛兵の大島正虎先生 常盤先生については、今までYouTubeでもご何度か紹介させていただきました。 https://youtu.be/l9JC4afjBjg https://youtu.be/cYeqRZIX2_I つもる話はあるので…
吉岡政光 先生 空母『蒼龍』に乗り組み、真珠湾攻撃に九七艦攻で参加され、敵艦に命中させます。 1918年(大正7年)お生まれ。 まさか令和の世でお会い出来るとは…。 昭和ではなく、平成ですらない、令和に、です…。 吉岡先生のお言葉 「蒼龍」で初めて2段ベ…
写真左が『彩雲』搭乗員の杉野富也 先生。右が佐伯正明 先生 ※①の続き 佐伯先生が特攻志願したこの神雷部隊は、司令の岡村基春 海軍大佐以下、精鋭揃いでした。 佐伯先生いわく…。 「私達は、一刻も早くこの兵器(『桜花』)を見たかった。 今や、全海軍あげ…
上の写真の左側が佐伯正明 先生。 右側は、同じくゼロ戦パイロットの北沖直行 先生。 私、この写真を撮らせていただいた時、本当に幸せでした。 佐伯正明 先生 海軍上飛曹。第721航空隊『神雷特別攻撃隊』。 ゼロ戦パイロットにして、人間爆弾の『桜花』への…
日本陸軍の偉業を日本人が伝えなければ、誰が伝えるのか 2016年1月、旧日本陸軍軍人の親睦会である偕行社の、新年会にて。 左から、 ・大島正虎 陸軍大尉(元 近衛師団 94歳) ・不肖 私 ・堀江正夫 陸軍少佐(元 自衛隊陸将/元 西部方面総監 100歳) ・竹…
10倍、30倍、或いは数百倍の敵を粉砕してきた日本陸軍。 精神力は、人類最強だったと思います。 どこの国でも、国土防衛の根幹は陸軍。 国軍の主体も陸軍。 陸軍こそ、海空軍の上位に位置すべき「軍種の中の軍種」。 その国の土属性と国民性を如実に表すのも…
小埜隆 先生 陸軍士官学校出身(55期)の方で「大陸打通作戦」に参戦した第13師団 山砲兵第19連隊所属の陸軍大尉です。 大正10年(1921年)お生まれ。神戸ご出身。幼児期から神戸港の軍艦を見て、軍隊に憧れていました。 「夜、丘の上から見る神戸港の満艦飾…
小埜先生には、更にこんな話もあります。 第13師団は新潟で編成された師団です。 先生の部下も上越地方の人間が多かったらしいのですが、その当時は結婚の際にも「相手の家柄」を気にする人が今よりも多かった時代。 そしてある部下の結婚相手が、どうも「悪…
※①の続き …先生は100歳を過ぎても、何と自転車に乗っておられました。 私、60年後にこんな事は絶対に出来ません。何度もそのお姿を拝見しましたが、驚嘆の他ありませんでした。 また、先生は正座されても一時間位なら微動だになさいません。 私なんかは正座…
※②の続き その間に後の奥様との出合いがあり、昭和19年11月3日。明治帝の佳節にご結婚。 リアル『日本の一番長い日』 終戦の昭和20年8月15日には、辻先生は天皇陛下の直衛で宮城にいました。 天皇陛下の客殿の前の土手にいたのです。 玉音版奪還の偽の命令が…
2016年2月、辻先生の100歳の誕生日に私はお邪魔させていただきましたが、家族・ご親戚の皆様と本当に和気藹々と過ごされてました。 ひとえに辻先生のお人柄・長年の積徳による功徳だと、改めて思いました。 Q.今の日本と戦前の日本、どちらがいいですか? A.…
天皇に近侍し禁闕守護の任に就く近衛師団は、家柄から近親者の思想遍歴まで何から何まで全て調べられ、全国から特に選りすぐられた者のみで構成される、全軍の中でも陛下が格別の信を置く天皇直属の親衛隊です。 (余談ですが、当時の近衛師団の集合写真を拝…
※②の続き 戦後は、1955年(昭和30年)1月に海上自衛隊に入隊。 3月には、かつて知ったる鹿屋航空隊に配属となり、航空士として対潜哨戒機PV-2、P2V-7に乗組。 1973年(昭和48年)11月に二等海佐として退官されるまで18年間、後進の指導・国防の任に就かれま…
※①の続き フィリピンでは、部隊の仲間達と共にバンバン基地を脱出し、二週間飲まず喰わずでやっとツゲカラオ基地に辿り着きますが…。 着いたその場で、急遽、特攻隊の編成を命じられます。 田中先生達の中から特攻隊員を出せ、という命令です。 沈思黙考の後…
※③の続き 海上自衛隊には、昭和28年10月に入りました。 ある時、町の中で搭乗員の同級生に会いまして「海自でパイロットの募集をしてるけど、行くか」という話になりまして、仲間はみんなほとんど一緒に受けました。 私は昭和29年から30年の初めに鹿屋に行き…
※②の続き 私の初陣が決まったのが、昭和20年5月…。 だけどね、前の日は全然寝られなかったですよ。 いよいよ明日が命日かと思ったらね。 寝られません。 (その日は)空襲を受けて、防空壕の中で、 「あの飛行機が帰る跡を付いて飛んで行け」 と命令を受けてね…
田中三也 先生 1923年(大正12年)生まれ。海軍少尉。 偵察機『彩雲』搭乗員。第343海軍航空隊。 田中三也先生は、光人社NF文庫からご著書も出版されています。 田中先生は「敵艦発見の第一電に、命を懸ける」偵察員として、1942年(昭和17年)8月の第二次ソ…